鵠沼郷土資料館の展示室を運営する中島知子委員長が、自らの戦争体験を語る講演会が開かれました。中島氏は、1945年5月、横浜で爆撃機B29による空襲にあいました。当時、中学生だった中島氏は、いわゆる軍国少女で、鬼畜米英の教えの元、竹やりの練習に励んでいたそうです。しかし、いざ空襲が起きると、何よりも早く、母親の居場所を探したと述べました。当時、サイパンから飛び立ったB29の数は520機、横浜の空を覆い尽くしたと言われています。そして3万個の焼夷弾が投下され、町が焼き尽くされたということです。
中島氏は、戦後、看護師となり、樺太からの引き揚げ船に同乗し、病にかかった患者の看護に当たったということです。看護師になるきっかけとなった案内書に書かれた、博愛・人道・奉仕の三文字がまぶしかったと述べました。講演会では、藤沢市の派遣事業で、原爆が投下された長崎市を見学してきた子どもたちも発表を行ないました。発表では「被爆によって差別を受けた方も多く、正しい情報が重要だ」「核による平和は真の平和とはいえない」「原爆を日本人として知っておかなければならない」などの意見が出されました。